≪夏に吹いた北風≫
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【プロローグ“陰”】
一.
ニ.
カサッ――。
「ふーん」
三.
「昌平いる〜?」
猫、猫、食器棚、猫、勝手口、猫、猫、猫、米袋、猫の餌、猫、猫、猫の皿……。
ふと、流しで目が止まる。
リィィン。
涼やかな風鈴の音がボクの声を遮る。
昌平は少女の姿を見て目を丸くした。
チリン、リィン。
風が、でてきた。
刹那。
二人の視線が絡まるが、彼女は風のように何気なく自由を得る。
カチン――。
風鈴とは趣の異なる音に目を向けると、琥珀が主の持ってきたコーラの缶を叩いていた。
≪続く……≫
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続きを待ってくれている人などいるか分からないが、
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_
「斎藤晃」
教師に名前を呼ばれ、ボクは怖々と彼の前に立った。
――通知表。
そう表紙に記載された一枚の紙切れが、この後のボクの運命を決めるのかと思うと、夏休
みを控えて高鳴る胸が急速に萎んでゆく。
あまりにも特徴のないことが特徴の担任が、ざっとボクの成績に目を通し、ある一点を見
つめて眉を寄せた。
(うわっ!)
「よく頑張ったな」
ボクの表情を見て、彼は満面の笑みで通知表をさしだす。
からかわれたとはすぐに気づかず、周囲からの冷かしの拍手にも、目立った反応はできな
かった。
「……ふぇ」
ボクは自分の席でひっそりと中を確認して安堵の息を漏らした。細かな数字は覚えてなか
ったが、初の10段階評価を5段階に変換して考えると、とりあえず“2”はなかったし、
体育と数学は“5”である。
「どんなだ!」
「あ」
突然、通知表が勝手に飛びだし、同級生の岡部直樹の手にそれは収まっていた。日頃から
ちょっかいをだしてくる彼の存在を、安心感からすっかり失念していた。まぁ、小学生の頃
から見慣れた光景ではあるし、見られて困るほどでもなかったので放って置く。
「……なんだ」
直樹はボクの反応に少し残念そうだったが、中身自体にも気があるらしく、すぐに笑顔を
取り戻して仰々しく開こうとする、が。
「うあっ!」
今度は直樹の手から通知表が飛びぬけた。
「呼ばれてるぞ直樹。どうせなら自分のと交換で見ろよ」
『ツカサ……』
ボクと直樹は同時に声を上げる。
見ろと示された物体は、苦笑を浮かべた羽山ツカサの指の間で揺れていた。
「ああ、まぁ、それでいっか」
直樹は頭をかいて教壇に向かう。
ボクとの共通の友人であり、このトリオの中でも、クラスの中でも一目置かれる存在のツカ
サの言葉は、まさに鶴の一声だった。
「別によかったのに」
「まぁまぁ……たしか晃は、あいつの成績知らないんだよね?」
「えっ? うん。だって直樹の奴、絶対にテストの点数とか見せないんだもん」
直樹とツカサは小学生の頃から何度も同じクラスになったらしく、小学6年生からの付き
合いのボクが、彼等の中では最も新参者なのだ。
微かな嫉妬心を覚えなくも無いが、それを認めることはプライドが許さない。
当の直樹は、教師に「お前はもう少し落ちつけ」などと、昔から言われてそうな常套句を頂
いていた。
「さて、中学でのあいつの成績はいかに?」
楽しげにツカサは笑む。
直樹は通知表を開かず、日に透かそうと挑戦しながら帰ってくる。
「どうせだから、後でツカサのも見てみようや」
「さんせ〜い!」
手を上げて賛同するボクに、ツカサは仕方ないなと肩をすくめて、クラスの期待を背に受
けて自分の運命を授かりに向かった。
ボク等の住んでいる地域は日本の法律では“町”らしいのだが、住人の間では“村”と呼
ばれることが普通だった。別に田んぼや畑しかないような過疎地でもないが、古くからの因習
と、その呼称が当たり前の存在として続いているだけのようだ。
そんな村の中でも、山の裾野に建てられた中学校の周りだけは本当に田舎だった。
夏には蛍が見れる自然は確かに素晴らしいが、他に何があると言われると、笑い事ではなく
何も無い。
ツカサは「薄汚れたお婆さんのやっている商店があっても良いよね」と爽やかに笑うが、何
を汚いと形容しているのかにはあえて触れなかった。
そんな長閑な雰囲気を、残念ながらボクは愛していた。
通学路の土手は川と平行に走っている――と言うか、子供しか使わないような道に橋を建
てるのが面倒なのだろう。
川面に反射する真夏の陽射しは、憎らしく暑く、誇らしく美しい。
目線を真っ直ぐ上げれば、対岸には濃緑の林が広がり、むせるような木の匂いと、けたた
ましい蝉の声を生み出している。
さらに上は、一面の空色。
「うわッ!」
普段なら美しい自然を眺めての歓声も、今日に限って、ボクは人工的な美にたいして使わ
ざるを得なかった。
寸前まで団扇の替わり使用されていた通知表を一斉に開くと、確かに、その中身は意外な
様相を呈していた。
「ふーん……やっぱテストは直樹が学年トップか」
ひどく当たり前のように呟くツカサが二位である。
二人の通知表は、順位だけでなく数字そのものが酷似していて、なんと“8”より下が存
在していない。
まるでドラマの小道具のような完璧ぶりである。
それに比べて、なんと貧相なボクの通知表。
「だけど……直樹の家庭科が“9”!?」
「てめぇ晃。その言い方は俺のことバカにしてんのかぁ!?」
「いや、なにを今更、当たり前じゃん」
「お前はいっぺん、本気で痛い目見ないと分らな――!」
直樹がシャツの袖をまくり、ボクはいつでも転進できるように腰を落した。
二人の争いを無視して、ツカサが我が道を激走する。
「やっぱ通知表って性格がでるよな。晃はバランスが取れてる」
『……』
「? 気にせず続けてくれ。ぜひ」
「……いや」
「……もういい」
結局、その場の勝利をかっさらっていったのはツカサだった。
直樹は足下から石ころを拾い上げると、ボクに歯を見せて笑いながら、川に向かって思い
きり投げこんだ。
「これでチャラな」
「わけわかんない」
ボクもニヤリと笑いながら、小石を蹴飛ばして水面に二重の波紋を作る。
理科の授業で習ったが、石は川を流れるうちに他の石とぶつかって、角を削って行くのだ
と言う。出遭った頃と比べれば、ボクも直樹も丸くなったものだ。
「もう終わり?」
心底残念と真顔でツカサは首をふり、二人の通知表を差し出した。
(こいつが一番タチ悪いね)
ボクが大げさに肩をすくめると、直樹も同じようなことを考えていたのか、ケラケラと大き
な声で笑った。当のツカサだけが、自分のこととなると全くもって鈍く、中身のない笑顔で首
を揺らしている。
「ねぇ――」
『!』
突然、気配も足音も予兆もなく、背後から声がかかった。
直樹とツカサは、持ち前の運動神経で慌てて前方に飛び退ったが、反応の遅れたボクだけ
がその場で振りかえった。
自然と一番前に立つことになったボクは、少し腰を屈めた女性と見つめ合ってしまう。
この田舎ですら見られない古風な黒いセーラー服を身に纏い、長くてきれいな髪を後頭部で
縛っている姿は、典型的な剣道少女を演出していた(そう思えた大きな原因は、彼女の背負
った唐草模様の竹刀袋だろうが)。
それより何より目につくのは、他の表情は知りませんよ、と言った感じでケロリとしてい
る笑顔だろう。
(中学生……いや、高校生くらかな?)
顔だけなら同世代にも見えなくは無いが、女性にしては意外と背丈があるので、外見から年
齢を絞りづらい。
「君達、この辺に住んでるの?」
女性はボクを代表として話しかける。
そこには、この村独特のイントネーションがなく、流暢な発音は都会から来たことを示し
ていた。
「……はい」
「あのね、お姉さん旅行してるんだけど、この辺に宿って無いかな〜?」
あまりにも女性が身を乗りだしていて、ボクは恥ずかしさのあまり口が動かなかった。
彼女の微かに上気した顔が間近にあっただけでなく、その緩い制服の首元から、胸の谷間
がシルエットになって覗いていたのだ。
「え、駅前にありませんでしたか?」
「この時期に満室ってことはないよな」
ボクの言葉に、ツカサが続ける。
確かに、この村の主要な(唯一とも言う)交通機関である駅前には、老舗と呼べそうな民宿
が数軒と、こざっぱりとした洋風の外観を持つ民宿が一軒ある。それらは夏祭りの期間でも
ないと満室にはならないはずだ。
「あったけど、ね……」
さらなる追求を受ける前に、女性が額の汗を拭いながら背筋を伸ばし、気持ち良さそうに
辺りを見渡す。
「やっぱりこの辺が良いんだ」
「ああ、なるほど、そっちの意味か――それならツカサの家に泊めてあげたらいいじゃん?」
「ウチか」
ボクの紹介に、ツカサが顎に手を当てて唸る。
「あっ、やった、君の家って商売やってるんだ! けど、やっぱこのカッコじゃあ、保護者が
いないとダメかな〜?」
女性は制服のスカートを持ち上げ、腿の際どい部分を露わにした。
先ほどから、平静にしていれば幼い印象なのだが、あまりの無防備さに行動の一つ一つに
色気が見え隠れしている。ボクはもう開き直って直視していたが、ツカサは顔を真っ赤にし
て狼狽した。
「いや違うんです! ウチは神社の管理を任されていまして、夏の間だけ離れを宿として開放
してるんです……けど、宿って言うか下宿みたいな感じで」
「食事やお風呂がツカサの家族と一緒になんだよ」
ツカサの言葉を補足してあげる。
何度か(もちろん無料で)使わせてもらったことがあるが、どちらかといえば、旅行者向
きではなく、大学のサークル合宿などで使われる殺風景な部屋だ。
「ああ、全然オッケーよ」
「……分りました。すぐに案内します」
と、ツカサは苦笑いを浮かべてボクを見る。
「ごめんな晃。昼食はまた今度な」
「いや、謝る必要はないっしょ。夏休みはまだ始まったばかりだし、ボク達も今日は真っ直ぐ
帰るよ」
「じゃあ、暇だったら遊びに来てくれ」
ツカサは軽く手をふり、女性は会釈をしてその後に従った。
少しだけ二人の様子を見つめていると、ツカサが振りかえって、ボクの横の男を指差して笑
った。
「……美人だ」
「あっ、ようやく喋った」
別の世界を見つめていた直樹が、ようやく戻ってきた。
「また惚れたの?」
「バカ! またとはなんだ、またとは……見事な初恋だ」
「あの人への初恋な」
個々人に初恋できるとは羨ましい度量だこと。
中学一年で、公式告白回数が三桁に突入している直樹にとっては、風邪の特効薬よりも、
恋煩いのカウンセラーのほうがよほど重要なのだろう――所詮、バカにつける薬はないとも
言う。
直樹は、大きく溜息をついて女性の後ろ姿に目を細める。
「だってさ、あの華奢で可憐な感じがよくないか?」
女性のスタイルを示したいのだろうか、ひょろひょろと、空中にひょうたんような形を描い
た。
「そうか? あの人、線は細かったけど意外と体つきはしっかりしてたよ」
「そりゃ剣道やってんからだろ」
「華奢だって言ったのはお前だ!」
「あん?」
すでに数秒前の会話を直樹は覚えていない。この鳥類の回し者が、どうして学年トップの
成績をとることができるのだろうか。
「ともかく……旅行にしては荷物もないし、制服ってのはおかしくない?」
「制服なら着替えなくていいじゃん」
「下着のことも考えなよ」
「彼女なら白だな」
(こ、こいつは……!!)
自分の台詞に一点の曇りも見せない根性(欲望?)には恐れ入る。ちなみに色については
正解だ。
直樹はパチッと指を鳴らして眉を跳ね上げた。
「後でツカサの家に遊びに行かないか?」
「パ〜ス」
ボクは頭を抱えて足を動かす。
目的と過程と結果が分りやすすぎる。恥ずかしい目にあうのは御免だ。
「ん? おーい、どこ行くんだよ?」
わき道に逸れたボクを直樹が呼び止める。
「え、昌平さんとこに寄って行きたいんだ」
「ゲッ! 猫屋敷のジジイんとこか!?」
「だから、その呼び方はよせって……一応ボクのジイちゃんだし、変な人だけど、悪い人じ
ゃないんだから」
「一応ってつけるんだから晃も相当なもんだな」
美女とジジイで釣り合いがとれたのか、いつものケラケラと響く笑いを直樹が立てる。こ
うなった方が、ボク的には会話しづらい。
こちらの考えなど知らず、直樹は走り寄ってきてボクの肩を叩く。
「やめとけ、やめとけ……ジジイは死ななきゃ居なくならんが、美しき旅行者は明日にも消
えるかもしれないんだ」
何度も無礼な奴だ。
と、ボクは突然浮かんだ良い考えに内心ほくそ笑む。
「……明日にはツカサの恋人になってるかも」
「!? い、いや、あいつの女嫌いは有名だからな」
それが有名なのはボクも認めるし、誤解であることも知っていたが、直樹には少し痛い目を
見て欲しかった。
「彼女が好きになるには問題じゃない……お前になびくようじゃあ、ツカサになんてイチコ
ロだね」
直樹の顔に亀裂が走る。
相手の力量を素直に認められる素晴らしい性格が、ショックをも冷静に測らせてしまうの
だろう。
「じゃあ……がんばれ、学年トップ」
悪戯心満載で、ボクは薄く笑いながら直樹の肩を叩いた。
猫屋敷とはつまり、猫がたくさん住んでいるから呼ばれている通称なだけで、しかも、屋
敷とは言っても純和風の小さな平屋である。
元々は祖父母が二人で暮していたのだが、一昨年の初夏、気候の変化が体調に悪かったら
しく、あっさりと祖母が亡くなった。それからの祖父は、典型的だが魂が抜けたような状態に
なり、このままでは痴呆になりやすくなると言って、ある親戚が猫を持ってきたのだ。
それがいけなかった。
祖父は復調するどころか、逆端までメーターを振りきってしまい、今や捨て猫の話を聞け
ば隣村まで走って行く始末である。
生活の大部分を猫に捧げる祖父――斎藤昌平にとって、人間の介入はこれといって歓迎す
るべきものではないらしい。
その、幾つかの例外の一つが、猫好き仲間の孫の存在だ。
戸を叩くような間柄でもないので、靴を脱いでとっとと家に上がる。
ちなみに――先に断っておくが、この家では天井でも見上げ続けていない限り、必ず猫が
視界に入っている。
手近にいた茶縞の子猫を抱きかかえて板張りの廊下を進む。
この家の間取りは、玄関を起点に、居間に続く直線の廊下と、縁側に延びる廊下が直角に
走り、その各辺にそって部屋が存在するというシンプルな造りだ。
一言で言えば,内装も含めて『サザエさん』の磯野家に似ている。
「あれ、留守かな?」
居間を覗きこむが人のいた気配が無い。もちろん猫はいる。
部屋そのものは畳敷き。中央に据えられた背の低い食卓以外に目立った家具はなく、前時
代的な暖かみを持った作りなのだが、猫の爪研ぎや玩具が散乱していて座る場所もない。昌平
の座布団すら主がいなければ猫の寝床だ。
部屋の隅においやられた電気ポットやテレビの主電源に明りが灯っていたが、あれは万年
付いているのでアテにはならない。
「まいったな……新しい子でも貰いにいったのか?」
茶縞の喉をなでながら途方に暮れる。直樹には教えなかったが、意外としっかりした用事だ
ったのだ。
とりあえず、足下に注意しながら隣の台所も覗いてみるが予想通り。
「う〜、昼飯も貰おうと思ったのに」
何もせずに帰るのは癪だったので、勝手に冷蔵庫を漁って飲み物を頂こうと思った。
と、ボーリングのピンみたいに乱立する缶ビールの中に、飲みかけのコーラを見つける。
半分ほどに減っては居るが、麦茶や牛乳よりはと取り出す。
「く〜〜〜、やっぱ夏はコーラだね……ん? 昌平は炭酸だめだったんじゃ?」
おかしい。
ボクは茶縞を地面に下ろして辺りを見渡した。
水をはった桶に同じ食器が二組ずつ沈められていた。
誰か客が来ていたと考えれば何もおかしくは無いが、昼食を軽く済ませる傾向の昌平にし
ては、圧倒的に食器の枚数が多い。
(……客が作った?)
バカな考えだったが、昌平が新しい料理に挑戦する姿よりは気持ちの良い想像だった。こ
のコーラもその人が買って来たのかもしれない。
そう考えると、そこら中から人の気配がしだす。
やけに周囲の静けさが耳についた。
「……琥珀!」
ボクの声に周囲の猫が耳を立てる。
暫く待っていると、スラリとした美人の白猫が姿をあらわす。背筋をしっかりと伸ばして
ボクを見つめるさまは血統書付きのお嬢様のようだが、ただの雑種のはずだ。
彼女はこの屋敷に住んでいるが、特殊な事情があって主はボクである。とは言え、絶対服
従を誓ってはいるものの、見た目通り気位が高く、愛想など皆無の表情でボクの言葉を待って
いる。
それでも、顔見知りがいたのは心強い。
「琥珀、ココに誰か来てた?」
「……」
「……琥珀?」
なぜか彼女は反応を示さずじっとしていた。
「なんだよ、学校に行ってたこと怒ってるのか? そりゃ、瓜彦の調子が悪いときに行くのは
気がひけたけどさ、通知表貰って大掃除してくる、だけ、だ――」
ボクは最悪の事態を思い浮かべ琥珀の前にしゃがみ込んだ。
「落ちつけ……そう、いや、瓜彦はどうした?」
伸ばした手は虚しく空を切る。
主の束縛から逃れた琥珀は、ボクを一度睨むと奥の部屋へ消えた。
「おい、待てよ!」
逃げるものは追う。
そこは平屋の中心に正方形に配された部屋の集まりで、各部屋のふすまが開け放たれてい
てやけに広く見える。
縁側まで視界が通っているのだが、日本家屋の不味い特色で、どうしても奥まった部屋が
薄暗くなってしまう。猫とは違い、数瞬で瞳孔の調節のきかないボクは減速せざるを得なかっ
た。
ニャゴニャゴと猫の鳴き声だけが聞こえる。
「?」
縁側。
徐々に色彩をとりもどした目が、庭に咲くひまわりの緑と黄色の中に、人型のシルエット
を浮かび上がらせた。
廊下から縁石に足を落としているようで上半身のおおまかな形しか分らないが、着物を着
ていることと、手に団扇を持っているのは見えた。
「昌へ――」
風もないのに。
ただ、風鈴を扇いだであろう伸ばされた手のシルエットが、恐ろしく幻想的な光景として
場を支配した。
「あなた、誰?」
それは酷く億劫そうに立ちあがって、衣擦れの音と共に少女の声を発する。女性の存在は感
じていたが、三十路以下の人物が出てくるのは意外だった。
目が慣れて徐々に声の主が浮かび上がる。真先に目についたのは紅色を基調にした浴衣で、
一瞬だが、着物を普段着にしていた死んだ祖母かと思った。
彼女は柱に背を預けて、少し俯き気味に、肩から体の前方に垂れ下がった髪を指で払う。
その動作ですら、気取った感じではなく気だるさを露わにしていた。
「そっちこそ誰だ!?」
ボクは少女に気圧されながらも必死で声を絞り出す。
古式を残す村にはおかしな話が数多く伝えられていて、子供を躾るための作り話だと分っ
ているのだが、頭の片隅で『マズイいモノに会ってしまったのでは?』と、警鐘が鳴り響いて
いた。
ボクの心を読んでいるかのように、少女は笑みを大きな物にする。
「昌平さんの愛人」
「あ、愛人!?」
「大嘘……お留守番です」
少女はクスクスと笑いながら答えた。
そこには、ボクを怖がらせるような空気は存在していない。
「! あのなぁ、見ず知らずの人間に――」
「瓜彦って名前の黒猫くんなら、お昼過ぎから姿を消してるわ。昌平さんが裏の林を探しに行
ったけどまだ帰ってこない」
「……」
「ごめんなさい、からかったのは謝りますよ。私は、ここで瓜彦くんが帰ってこないか見てい
たの。ほら、そんな所に居ないでこっちに来なさいな」
少女は外見に合わないバカ丁寧な口調で笑うと、縁側に腰を下ろしながら団扇でボクを招
いた。ボクは歯を食いしばって少女の横に腰を下ろす。
「……ごめんなさい。見ず知らずの人間の、飼い猫のために」
ボクは目を押えて俯いた。
「からかったのは私ですよ」
「ボクの、気を、紛らわそうとしたんでしょ」
「失敗したみたいだけど」
そよそよと、やさしい風が頬をなでる。顔を上げると、少女はひまわりを見つめながらボク
を扇いでいた。
「〜〜っ!」
恥ずかしかったけど涙が止められない。いくら歯を食いしばっても、喉の奥からこみ上げて
くる嗚咽が舌を揺らす。
「大丈夫」
そっ――と、少女の暖かい手がボクの背を叩く。
「泣いてもいいけど……猫が居なくなったって、まだ死期が来たとは限らないよ。調子が悪
かったけど、あまりにも天気が良いからお散歩に出たのかも知れない。そのまま木陰とか縁の
下でお昼寝してるのかも」
少女の穏かな声は聞こえてたけど、ボクは返事が出来なかった。
「ありがとう」と、一度だけ口にだせそうだったのに、よく分らない、しゃくり泣きみたいな
音しかできなかった。
返事はなかったけど、彼女は背を叩くタイミングを少しだけずらして答えてくれた。
そうやって、彼女は、ボクが泣き止むまで「かも」を続けてくれる。
「ねずみを追いかけてるのかも」
「木登りして降りられないのかも」
「川で泳いでいるのかも、って猫は泳がないかな?」
かも。
かも。
かもかもかもかもかもかもかもかもかもかもかもかもかもかもかもかもかもかもかもかもかも
かもかもかもかもかもかもかもかもかもかもかもかもかも
かもかもかもかも
かもかも
かも……
・
・
・
「おかえりなさいませ」
彼女は微笑みながら首だけを傾ける。彼女の膝を枕に眠っている子供が、目を覚まさない
ように。
ほとんど真白な髪をかいて、昌平は子供に向かって「バカ」と口だけを動かした。
「駄目、でしたか」
「ええ」
彼は抱きかかえた黒い猫に目を落した。
静かに眠っているようにしか見えないが、そこには夏のような「生命」が感じられない。
二人は瓜彦が居なくなったときから半ば予想していたが、無関係な少女と比べて、昌平や
この子供の心中は如何なる物か。
「……このお子さんは?」
「孫の晃だ」
彼女が尋ねると、昌平は少しだけ意外そうに、そして悲痛に微笑んだ。彼の声はとても低く
てお腹と胸に響く。
「お孫さんですか……顔の雰囲気が似ているから身内の方だとは思ったのですが。お互いに
名乗る暇がありませんで」
「すみませんね早紀さん」
「いえ。一宿一飯のご恩には到底、足りていません」
晃の髪をすくと、子供らしく、夏の汗や砂にまみれていて指に絡む。
「悲しいですね」
「こいつは『親友』に死なれるのが二回目なんだよ。子供の頃に犬を飼っていて、ちょっとし
た事故でな……」
「回数は関係ないでしょう。慣れるなんて、マトモな人にはできません」
昌平は縁側に腰掛けて孫の顔をのぞきこむ。
彼の目元も赤くなっていて、ここに来る前に、どこかで泣いてきたのだろうか?
日が沈むにはまだ時間があるが、夕暮れの訪れが近いことを風が教える。
田舎の『昼』は長いのだが体感時間は恐ろしく短かい。この家は林に囲まれていて、周囲
よりもさらに暗くなるのが早いように思える。
ぱたぱたと、晃を扇いでいると、琥珀と呼ばれた白猫が近づいてきて主に寄りそった。
「……すぐに教えるんですか?」
「どうだかな……いつ教えれば良いのか? そもそも、教えるべきなのか? 一度でも大人
になっちまうと、子供の心ってのは遠くなっちまう」
「一度でも?」
訊ねたいポイントを早紀は繰り返す。
「いや、大人ってのは徐々になるもんじゃないんだよ。実際は皆、子供の心に耐えきれなくな
って逃げちまう――」
昌平は、少し前屈みぎみに庭を見つめ、重ねていた指を組みなおした。
「大人になれば色々なモノが捨てられるからな。ただ、それを無くすと悟るんだよ。子供には
できないことをすると言って大人になったが、それなら、子供が眩しく見えるのはおかしいだ
ろう、って」
「子供のころに出来た『当たり前』ができない」
幼い頃の――夜店のラムネのような出来事が早紀の頭をかすめる。
「あんたも、無理して大人を演じない方がええ」
「ご心配なく……どう頑張っても、私は大人にはなれません」
昌平に微笑みかけて団扇を手渡すと、早紀は瓜彦の亡骸を抱えて立ちあがった。この夏の陽
射しの中ですら、それは凍てついていた。
「この子は、私が埋めて来ます」
「何を――」
「いえ、昌平さんはお孫さんのお布団をお願いします。私では何がどこにあるのか見当もつか
ないし、やはり他人の家に手をつけるのは遠慮したいので」
早紀はそれとは気づかれないほど微かに頭を下げた。。
「誰に気を使っているのか……いや、ご好意に甘えるとするか」
昌平は男性の本領とばかりに、晃をお姫様のように軽々と抱え上げて、振りかえってはな
らない暗がりに姿を消す。
と、昌平の顔だけが見えない位置で彼は振りかえった。
「早紀さん。お願いがあるんだが、そいつは、誰も掘り返せないように目立たない場所に深く
埋めてください」
忘れ物だと昌平に知らせているみたいに。
(間接キス、してしまいましたね)
早紀は場違いな己の雑念に、不謹慎ながら頬を緩めた。
長いのは定期的に更新して行こうと思います。
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